職人の住む町
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出川親方

根付の技を語る場合、細工だけでは語れません。作る人と持つ人、例えば蒐集家同志においては、他人に負けないものを持つことが重要でした。その喜びと張りが楽しいのです。作り手も同じで作意と繋がります。ここに“遊んで”こそ、歴史が伝える根付技、貴重な舞台となっています。製作技は、昔も今もそれほど変わりません。違いを語るならば、根付が着物文化の衰退によって、本来の目的を失ったことです。しかし“小さな彫刻”として捉えれば、世界に類を見ない日本独自の文化で美術工芸品としての価値は、世界中から絶賛されています。昨今、海外では“おしゃれの小道具”として楽しむ人もおり、ひとつの進化として捉えることができます。叉、根付の文化は“使う道具”から発しています。この基本を守って進化させていくことが根付製作の定義であり、基本です。今の日本の風潮で心配があります。誤解から根付文化を壊してしまう危険があるということです。根付という言葉が勝手にひとり歩きし、小物に紐を付ければ、“面白い”彫刻に紐を付ければ根付となりますが、果して現代はそれに近いのです。根付文化は日本です。ここで誤解して表示する人も買う人も日本の貴重な文化の定義と誇りを今一度学び、それを認識することが大切です。もちろんその気になれば繊細な日本人であります。文化の誇りを活かし“おしゃれな根付”として進化させ、さらに開花させるのは可能と思っています。製作に従事する人も“根付の定義”を守り、それでも無限の表現はあるのです。よく聞く“伝統にこだわること無く・・”と信念を持って語る作家がいます。この語りは疑問です。その人の器に文化を狭めてしまう人で、作家としても職人としても疑わしい身勝手な姿勢であります。先人達の文化を継承したものですから、どの職種も同じです。こうした人達が平然としていられるのも、甘い製作者を見抜けない環境がありこれも残念なのです。文化が “育っていない”という証明です。現代の文化が嘘くさいことは、環境もきになるということであります。毎日身勝手な事件や風潮などもその証明です。本物の職人にとって弟子を育てる気がしなくなる環境では困るはずです。“身勝手な思い”が環境に広がれば器は個になって小さくなり、期待感は薄くなります。互いの関係が稀薄になれば、捉え方も希薄になります。これは真の職人、本物の作家であれば、自身と向き合っていますから自己を広げ育てていく意識“一人前”は環境との中、すなわち関係を持っていることが自然に分るのです。文化の重要性も言葉だけではなく、実感として関係が見えて分るのです。本来の使うとか、勧賞するとか、楽しむとかなどはそれですが、その根底に心情や姿勢、技だけの問題だけではないと言う基本を知るべきであり、歴史も文化もこの基本の中あると言う事です。そして文化は進化し守られていくと思うのです。 根付の製作姿勢に付いて 本来、作り手からすれば、根付は個人的な性質の工芸です。求める側からすれば、同じものを欲しがる人がいたり、独自のものを欲しがる人それぞれです。手作りであるのに関わらず、掲載写真と違うと言うことで怒る人もいますから、同じものを頑に作る職人も、それはそれで肯定出来るのです。しかし私の場合、古根付の時代の職人気質を伝承したいと思っています。従って感覚、技、発想、同じ形の構図でも新たに作る場合、どこかに自己発見と創造性が欲しいのです。 特に“現代根付”は、作品的要素が強く、この製作姿勢が重要になります。 先人達と同じように進化しながら製作したいのです。自身対する期待、環境も含め全てに期待して製作します。昔は依頼者と作者の思いを合致させた表現の根付がほとんどです。負けない意識、向かう楽しさ、苦しさ、期待感、創る側としてはワクワクするのです。いくらネットの時代であっても人間はアナログ。満足感や幸せ感、楽しさの概念は、昔と何も変りません。根付文化はすでに世界の財産です。もし日本側の意識が今の風潮、そして職人文化を、意識なき当代の“気付かない姿勢”で消滅させるとすれば、あるいはこの無知に気付かないとすれば、未来の人達や海外の人達から“メッキが剥がれた”と笑われるはずです。日本独自の文化を継承している当事者としては情けない思いであります。当然、根付は海外の人達のものになってしまうはずです。“日本独自の文化”であると大声を張り上げたところで、環境が劣化していれば、歴史的文化は消滅、その姿勢も蓄積も無くなり、未来の人達、海外の人達に言い訳が出来ません。皆が困るのです。職人達全てが同じで、近未来は弟子を取る事を辞めた職人が多く、全滅、そして文献だけになります。ゆえに外国の人達から“日本の誇れる技文化は何か”と聞かれた場合、せめて“根付や日本刀”など誇りを持って“語れる意識”がほしいと思っています。


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  家業でもあり18才頃に自然に始まりました。幼い頃から見聞きし,手伝いもあって身に付いており、この時期には修行ということより専業として仕事場に入ったのです。初仕事も作品でした。根付に対する興味は学校で美術の勉強をするうちに、何をすべきかの意識が強くなって家業が気になり始めたのです。 象牙彫刻の王道“置物”に対する意識は不思議に失せて、根付に強く引かれたのです。“さあやるぞ”と思った20才の時、親方であった父が亡くなりました。弟子になってわずか三年。それからは家長として、私が職人をまとめる生活です。今考えれば、若造の自分がどれほどやれていたのか疑問です。ともかくひたすら走り続けました。無我夢中です。気付いた時に今の自分。無我夢中とは多分、道を歩く神髄であると思います。
  自身の作品を語る事はしません。しかし現代根付も伝統の技の延長です。継承されたものですから温故知新が重要になります。それに加える進化ですが、例えば、造形も古きを尋ねると先人達の作品には、潜む審美眼、向かう姿勢から、今よりデザインが新鮮であると感じます。羨ましいのです。その意味で私ごとですが、若い時に技以上に、造形の勉強を真剣に行うべきであったと最近つくづく思うのです。結局、創る側も見る側も“理解するとか、分る”とかいう点で捉えれば、自身の成長と言う視点が基本になります。そのレベルの高さで作品、あるいは文化が活かされていくと思うのです。人間の未熟から巻き起こす人災の数が世間に増えれば増えるほど、自己成長の意識が薄れてきている証であり、その吹き出物なのです。姿勢に備わっていく判断力から捉えれば文化意識も風潮に比例して低下していきます。言葉としてのみ文化の重要性を語っても、何も意味がありません。ともかく私は自身と先人達に負けない意識で創り続けようと思っています。 象牙彫刻の家系・4代目であります。
 
使うのは主にやっとこと蝋付です。
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リングひとつひとつは2ミリ程度です。
ごく微差のリングを滑らかで軋みなく編組する
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デジタルカメラの拡大に耐える精緻さ
 
時計のベルトやネックレスなどは、18金ながら一般的なスチールベース以上の剛性に仕上がります。
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座右の銘
  別にないのですが、常にお客さんと関係者を驚嘆させる技であり続ける事、さらにその研鑚に伴なう姿勢の職人であることを目標としてきました。
  同じ道を歩く人に期待します。それは挑戦です。根付を作る以上、自分との戦いは避けられませんから意識します。自身に課しています。今の私も同じです。嬉しいことを発見出来るのです。続けると次第にこれほど楽しい事はないと感じるようになります。化けともいいます。辛いことも当然ありますが、楽しい事の方が多いのです。若い人達に言いたいのは“逃げている為に苦労すること”と、“向かっていくときの苦労”の違いですが、どちらも変わらないのです。しかも後者の方が全てが楽しさに繋がっています。刹那の辛さを捉えれば、前者は先が見えないので挑戦している人よりもっと辛いと思います。つまらないことにも悩むようになっていきます。それが挑戦し自身の足下を見ていると極端につまらないことが少なくなります。誰でも自身に期待するはずです。己を見て、更に今後どうなるのか見たいはずです。期待は、経過の捉え方ですから、日々が大切であり、ゆえに満足感もあって楽しくなるのです。今は経過が抜けた言葉が雑然とあるいは平然と使われています。あまりに多すぎて困っています。理想話は結果ですから誰にでも出来ます。人より頑張れば、相手はこんな時代、油断していると考えても良いはずです。たるんでいる自分と頑張る自分を比べれば同じ人でも何倍も差がつくのです。どんな仕事でも一緒であります。幸せと感じる意識も自身の自覚、これ以外に自身を育てる方法はないのです。お金があっても幸せ感の持てないのは、結果ばかりを考えて、自身を育てていないからです。仕事は違っていても同じ道を歩く人が多くなれば楽しいですね。期待しています。

 

職人名 斉藤美州(でがわ・まさよし)
職人区分 名匠(単独)
雅号又は銘  
生年月日
職種(種) 根付師
作品(アイテム)
技数(積)
弟子入りしてから手伝えるような状態になるまでの期間
技の種類や工程
象牙の他に、木製、角類があります。当然、使う彫刻刀など道具も技もまったく別になります。しかし、根付をやる以上、技の違いは超えなければならないものです。習得する事も材料の質を知ることも専門家となれば当然挑戦すべきです。
現在の立場(役) 現役
次代 他  


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