昔ながらの硝子の職人である。作家になろうとはまったく思っていない。
昔からの職人同様、問屋から来る仕事を黙々とこなす。様々な要求は硝子の容器に線を数本入れるだけのものから華麗なカットを見せる物まで、何でも扱う。毎日毎日この作業が止まる事はない。それでも先行き空いた時間で自分の楽しみとして作品を作ろうと思って溜めた原料容器がかなりある。しかし、たまの依頼で単品作品を作る程度である。山本兄弟のような純然たる職人と、作家になった職人を見る時、どちらがカッコがいいのかをいつも考えるが、どちらから心に残る感動的な言葉を聞けるかと言うと、職人さんが圧倒的に多い。本物の作家は別として、自称作家系は形の良い事ばかりを繋いで話す。職人は、同じ物を安定して作り出せる腕を持ち、確かさを年輪とともに刻んで行く。従って何を作っても基本が有り、無理なく作る。
残念な事だが、最近多いクラフト的な作者の腕は、積み重ねに乏しく、腕は職人程でない為、ひとつを作るのにも大変な時間をかけて作らざるを得ない。そこで理屈が生まれ、価値観をこじつける傾向が見える。たとえ作品の見栄えは良くても要注意である。
もう一つのパターンで残念な職人がいる。ベテランの中には作家という甘い響きに漬かってそっちに完全に鞍替えしてしまう人達がいる。もちろんその両方をきっちり行うベテランも多い。しかし、職人らしい真摯な態度は一応見せても、本物職人とは微妙に異なる人達がいる。発想は自己から離れ、常にストーリー性を持って自己を演出し結論を語る。雑誌の若い記者などはこれに弱い。見抜けず、ことごとく騙されている。こうした会話と、腕の善し悪しとは全く関係ない。うまい話は誰でも出来るし、職人としての張りでも粋でもない。粋と似ている見栄であろうか。売り専門になってしまった職人と同様、実に饒舌である。
山本氏は自分が今実際に向っている立場から、進むべき道を離れず、裸で素のままの職人としての存在感を話の中にも見せる。兄弟ともに同じで無理がない。その熟達した技から作り出されるカットの輝きは、職人として見るべきものを感じさせる。
ソーダ硝子のトロッとした輝きの味、クリスタルにはクリスタルの素材の味を活かす輝き。燻し銀のカットとも言うべき光の屈折の美しさは、芸術系のカットとも異なり、どこか歴史的に崇高なもの、刻みこんだ本物の職人の腕をさり気なく見せる。
こう思うのは私だけではないはずである。
一般への販売はあまりしていないとの事でしたが、日本職人名工会が親方にお願いしたところ、活動に賛同して頂き、販売も何とかお願いできました。単品でも可能ですが、日々の作業スタイルの関係で、ホテルや店の揃い物などを特に扱えるようにお願いしました。写真にあるものから揃いもの、結婚式の引き出物、お返しものなど、日本職人名工会を通してもらえば価格は相談に乗るとのことでした。
全て参考商品の為、価格はお問合せ下さい。大量注文承ります。 送料を改定しました。お買い上げの合計額が一万円以上で送料無料になります。(2010,7)
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