2000以上のパーツの一つひとつに蝋付けしては留めてゆくだけの気の遠くなるよな作業です。親方の技術は極めて高いことがこれだけでも容易に伺えます。
どのパーツに問題があっても歪みが出たりしなやかさに影響が出てしまっては、せっかくの見事な編込みの感動に水を差します。しかし親方のアクセサリには
軋みや歪みはどこにも見当たりません。
完成度が極めて高い場合には、作家が見えてこないと言う問題があります。時々、細工の善し悪しは感受できても
作り手本人のことまで思い描かせることができない職人がいます。作品に差し挟めるイメージがないくらいに
完成されている証拠ではありますが、奇しくも名工と呼べる人間にはそういう逆説がつきまといます。親方の鎖は“本物は見れば分る”と言う
世俗的な定義が当て嵌りません。まず類似したアクセサリはあっても、ストイックさを詰め込んだ様な細密さを持つリングは
実際に一つも知らない筈です。
海外の著名な画家の展覧会ならば列をなして人が集まるものですが、しかし国内の優れた人の展覧会は一様に寂しいものです。
まして客足で匹敵するのは大抵は海外で有名になった人というのが日本の。いささか厳しい言い方にをすると、
半ばアマチュアの発想で作った物の方が「素人目にも明瞭」で「新鮮み」があり「身の丈」であり「分りやすくて説明が不要」と言うことです。
もっといえば、持て囃し易いものを作る人がもてはやされるようにと増え、そしてそればかりが持ち上げられる構造にも難があります。
技術に定義はなくとも本当の意味での文化意識は曖昧になるのです。
また、自身より優れた技を持つ先人がいない技術者の苦難を理解するのは難しいことです。こういった職人達は“他には絶対負けない”という
自負は持っていても羞恥心があることも多いのですが、出来れば親方のような技術はなるべく表にあって欲しいものです。
職能を得ても研鑽すべき立場に自分を置いており、こういった仕事を差し置いてまで不遜を言うことは出来ません。
親方は紛れもなく世界一のランクにいる職人であり苦闘の履歴が伺えます。アクセサリは飽きないシンプルなコンセプトのものが多いです。
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