大なる写真家ロバートキャパが参加していた団体マグナムの写真集を見ました。歴史に残る有名なカメラマンばかりです。 気付いたことは被写体が静止しているのに、その後の事や動きまで気になり、思いが広がっていくのです。“何を見せるのか” ならば、動画の方が経過も分り明確です。しかし、優れた静止画を見ていると、訴える意味や深みが心情と共鳴し、増幅効果もあって 動画以上に強い表現力が感じられます。今更ですが写真の素晴らしさを再確認しました。同じ観点から美洲親方の根付を見ると 同様にプラスの要素を感じます。静止した小さな彫刻が動いているように感じるのです。生物共通の生きる経過の跡流を 掴み逆らわず・・次の動きや形、線まで感じさせるのです。多分根付に“動的要素”を加えた人が美洲親方であると思いました。 技術や出来映えからも、インパクトがあって思いを押し返してくるのです。卓越した表現力、一貫した姿勢ゆえ、深い哲学を 感じる人もいるはずです。まさに不世出の鬼才“跡流根付の匠”と称される人です。根付とは元来日本独自の文化ですが、今や価値と珍しさ から世界中の人に愛され、海外の愛好家の中にも根付作家が多数育っており、世界大会も実施されるほどです。母屋が 奪われるのではと思う盛況さであります。こうした誇れる技の頂点にいるのが斎藤美洲親方です。世界大会に招待され、 仲間の桜井英之氏らと出かけます。根付界の長老、広晴親方(頑に職人を貫く代表格、桜井家の長兄)に現代根付と言う括りで世界の頂点にいる人は誰かと尋ねました。「絶対にあげるべきは斎藤美洲だな。作風は異なるが、私の弟の英之も違った角度で努力しているから、 その一角・・。ともかく美洲は根付を知っている。凄いね。」とのことでした。
本来、作り手からすれば、根付は個人的な性質の工芸です。求める 側からすれば、同じものを欲しがる人がいたり、 独自のものを欲しがる人などそれぞれであります。一つずつの手作りであるのに関わらず、掲載写真と違うと言うことで怒る人もいます。従って同じものを頑に 作る職人も、それはそれで肯定出来るのです。しかし私の場合、古根付の時代の職人気質を伝承したいと思っていますから、感覚、技、発想、同じ形の構図で も、どこかに自己発見と創造性が欲しいのです。 特に“現代根付”は、作品的要素が強く、この製作姿勢が重要になります。先人達と同じように自身に対する期待、環境も含めて昔の根付師と変わらず同じ気持ちで製作します。依頼者と作者の思いを合致させた表現の根付です。負けない意識、向かう楽しさ、苦しさ、期待感、創る側もワクワクするのです。いくらネット の時代でも人間はアナログ。満足感や幸せ、楽しさの概念は、昔と何も変りません。しかし、数々の日本独自の文化も環境や意識が劣化すれば消滅の一途を辿るでしょう。未来の人達に言い訳が出来ません。皆が困るのです。職人達全てが弟子を取る事を辞めたのも今の風潮です。そして文献だけにしか見られない職種も多くなります。せめて外 国の人達から“日本の誇れる技文化は何か”と聞かれた時“根付や日本刀”など誇りを持って“語れる意識”がほしいのです。
根付とは、サイフや印籠等を落とさないように固定する小道具です。紐を付け、先に小さな3cm程度の玉状のものを付けます。 この玉の事です。使い方は帯下から入れて根付を上に出しますが、この単純な仕掛けで、盗まれたり落としたりを防ぐのです。丸い玉には 360度彫刻を施しますが、これが江戸時代に始まった根付の彫りの特徴です。根付が開発された経緯ですが、日常使っている持ち物や小物、 例えば、火打石等を入れる提げ袋を持ち歩く場合、着物には納める場所がないのです。そこで吊るす方法を考えました。当初は大陸から 伝わった僧侶の袈裟を止める輪をヒントにした“帯ぐるま”。あるいは中国の印鑑等には穴が開いており、こうしたものが“ヒントになった”と 言う人もいます。瓢箪や竹の節、クルミ等も同じように使われていました。立体彫刻表現“形彫り根付”の登場は 1700年代初期です。1781年刊行の「装剣奇賞」(大阪の商人 稲葉新左衛門が刀装具を紹介した一大目録)に根付の項があり、当時の名人作家が 記されています。この書を境に前期を古典根付と私は考えます。“根付とは何か”といった試行錯誤が様々な形で模索し、その面白さや創意工夫 ゆえに海外の人達を感動させ“the netsuke”として注目されているのです。作家の姿勢と創造性に溢れ、根付彫刻の基本であり、原点、故郷です。 技術的には後の時代に劣っていますが“自由な力”と心意気、意欲、発想、多彩さに感銘を受けるのです。この試行錯誤に学んでこそ “根付とは何か”の答えが出ると思います。歴史から教えられるのはどの分野も同じです。文化が育つ経緯、学ぶと言う経緯が重要であります。 “作家の姿勢や努力”その全てが根付の歴史であり、私の原点であると思っています。
根付の技を語る場合、細工だけでは語れません。作 る人と持つ人、例えば蒐集家は“他人に 負けないものを持つことが自慢”でした。 作り手もこれに合わせて作意や意欲に繋げていました。ここに“遊んで”こそ、歴史が伝える本来の根付技となります。作る技術は昔も今も それほど変わりません。大きく変わった事は着物文化の 衰退によって、根付本来の目的を失ったことです。しかし “小さな彫刻”としては、世界に類を見ない 日本独自の美術工芸品となり、世界中から絶賛されています。昨今、海外では“おしゃれの小道具” として楽しむ人もおり、これもひとつの進化です。 また、根付は本来は“道具”ですから、作る側もこの目的を守ってこそ根付であり徹底することが重要です。今の日本の風潮で心配なのは、小物に、あるいは “面白い彫刻”に 紐を付ければ根付とする傾向です。現代はそれに近いのです。発祥の地として誇りを持って守るべきなのです。もちろん その気になれば繊細な日本人ですから文化と誇りを 活かし“おしゃれな根付”として新たに開花させられると思っています。もうひとつ心配なことですが、 職人の言葉で“伝統にこだわることなく・・”とさも信念を持っているかのように語る作家がいます。作る側の大いなる勘違い。先人達の遺産も文化も 背負っているかのような姿勢です。しかし単にその人の器に狭めているだけで、力量の自覚の無さに疑わしさを感じます。 先人達の文化を継承しているのです。どの職種も同じです。この姿勢が世間的にまかり通っている時代が問題なのです。昔のように姿勢を見抜く人がいないのです。“ 人が育っていない”という証明のような気がします。 “身勝手な思い”が環境に広がっていけば器は個になり小さくなります。互いの関係も稀薄になり、期待感も薄くなります。考え方も捉え方も浅くなります。 文化の重要性も言葉だけになっていきます。技の歴史も文化も、本来は研鑽をする意識を土台として守られ進化していくものであると考えます。