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終戦の年、小学校を卒業。20以上の職業からなる流転人生。27才の時、木と生涯付き合うこととなる。アイヌの人達と斧を振るう。木を倒すことから活かす事、命を吹き込む事を心に決める。仏像に似た物から始めた。39才まで北海道の山を女房子供を連れて点々とした。その頃は様々な木彫や民芸品を手掛けていた。40才の時、熊彫の第一人謝である平塚賢智先生と知り合い木彫りの道を選んだ。ここから木彫りに専念した。 |
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何故鮭を彫るのかよく聞かれる。産卵に故郷の川に迷う事なく戻って来て、自らの生命を全うする。偉大なドラマに心を打たれ、自然の素晴しさと言い知れぬ感謝で心がいっぱいになる。自然の営みに対し、木を通してその心を表したいと考えていった。それを鮭の姿で写すことに迷いはなかった。技術は経験を積めば何とかなる。大事なのはにおいだ。北海道らしいと言う事も大切だし_アイヌは必要なだけしか木を切らない、魚も同じだ。私は海の人は山を愛し、山の人は海を愛してほしいと考えている。木と自然に感謝して作っている。 |
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心掛けているというより感謝以外ないね。家族の理解と良き友人と良き師と、そして育ててくれた自然に対して常に考えている。“負けてたまるか”そう思いながらやってこられたのも結局はそう言う事と思う。体を張ってきたと思うし、一つの道から覗いていると一杯世の中のくだらなさも見えてくる。人の心も見えてくる。だから貧乏はしても心の貧乏はしたことはない。ともかくテーマを持って前に向っていく気持ちが大切だね。 |
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本物の職人は変な欲を持ってくると腕がそれに合ってきて駄目だね。木彫りという職業は飯を食えないから俺一代で終わりだけれど、孫が「じいちゃん、鮭を彫るよ」と言ってくれている。複雑な気持ちだね。 |