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職人の張る伸子(シンシ)が返る時、太鼓のように張った布が規則正しく響き、子供の時から朝はその音で目がさめました。その昔、神田の紺屋町からスタートしたあたりからは聞いています。現在の場所では大正9年からの屋号となっています。
小紋や更紗は本来分業でした。職人の数が少なくなり次第に一つの工房でやる必要性がでて来ました。ベテランの職人が少なくなって来ますと、外注では思うような結果が得られないことも多くなって来まして、必要に迫られて全ての工程を行うようになりました。この事は自分なりに納得出来る事と、お客様の要望とこだわりに対し、近付けられることが可能となり、私どもの過去の歴史の中では理想に近い体制で臨んでいます。
又、近年、問屋が輸入物に押され始めて来た時ですが、対抗するために出来るだけ安く販売する事に力を注ぐようになり、製造社の圧力から粗悪になっていきました。私達はお客様の声が直接聞こえて来ませんからその通りにしました。
ある時、直接声がかかり、お客様からこんな素晴しい更紗が出来ないのかということでお話 を頂きました。驚いたことに私どもで作ったものでした。このままでは技術がダメになる、応援者がいる、手抜きをせずにやろうということになり、それを機会に100反という注文を送り返し、問屋ルートとそこに繋がる関係者全てを断ち切りました。いくら頑張ったところで染められる量には限界があり、それなら良い物を作りたいとの考えで一致しました。独自の道を歩き始めることは覚悟のいる判断でした。良いもの、本物だけを作る体制を土台にし、それをフォロー出来る物作りと合わせて平行作業を行い、本物を活かせる体制と、収益を考えながらの明確な体制をひき、且つ直接小売店を歩き回わって反応を聞きながら活きた物づくりを進めています。 |
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お客様に喜んでもらえる技、その為に職人として全ての技に目が届く体制、外注をせずに一貫した流れを大切にする他にない体制がまず特徴です。何より要求やこだわりに応えられる体制を作りました。声が聞こえる距離にいることで、30代の若い感性にも応えられるものになって反響に驚いています。それと江戸更紗を知らない為、知って頂く上でも大切な事でした。 |
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着物を売る為に常に冠婚葬祭に絡め、様々なしきたりの様なものを作って来ました。訪問着であるとか、洒落着であるとか色々と決めてしまっ為に逆に自由な発想が削がれ小さくまとまってしまった反省が業界にあり、もっと自由な発想を提案出来るようにしようといった流れかあります。こうした考え方は、私どもではお爺さんの代から洒落物を扱っていたせいか早かったようです。
常に言っていたことは『生活習慣の中で、玄関から素のままで出てくる気楽さで着物を着るイメージを考えよう』ということでした。常にお客様が着物を着て喜んでもらえるところまで行って、職人として完結するということです。それを全員で意識しています。とはいっても難しさは沢山あります。我々職人のイメージする色感覚に差があることです。常におつき合い出来るお客様がいることは、例えばどんな赤が好みなのか即わかるといたことも有り難いことです。 |
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伝統を正しく守る事、それが出来る体制作りも大切です。そうした中で明日咲くつぼみを育てている気持ちでいます。従って伝統は壊すものではなく活かすことです。常に伝統は学ばなければなりません。 |