職人の住む町
HOME 名工会の主旨 名工会の概要 職人の町一覧 職人技市 日本の技博物館 応援団 検索
元気な酒とは
 
 【細菌とは】
 
酒は発酵菌の働きで醸造されることは誰でも知っている。この発酵菌を含めての細菌だがこれが凄い。地球の主とも思える歴史を持っている。繁殖力の強さも驚くべきものだ。例えば、部屋の中で別に埃を立てるわけでもなく、光の具合でびっくりするほど埃が舞って見えることがある。小泉武夫先生(農学博士)の本で知ったが、一立方メートルの中に細菌が一万、これが普通であり浮遊しているのだ。まさに人間との共存である。
成層圏の二倍の高さにも二酸化炭素を分解する菌がいる。北極や南極の雪や氷の中,水中、海の中、体がたんぱく質でない細菌もいて熱湯の中でも凝固しないので平気らしい。ともかく我々は空気や食物を通して、良い菌、悪い菌をごく普通に体の中に取り込んでいると思ってよい。
菌の中で一番大きいものがキノコだ。次にカビ、それより小さくなって1ミリの千分の一のマイクロメートル(ミクロン)の大きさ、このあたりから見えない。3〜5ミクロンが酵母菌、0.1程度が納豆菌や乳酸菌である。さらに細かくなって、1ミクロンの千分の一、ナノメートル、ウイルスは20〜200ナノメートルだ。
地球の自然環境の中で、特に菌が繁殖しやすい地域があると言う。日本もその一つだ。だから造れない発酵食品は無い。
もう一つ、日本の特徴であるが、島国である。昔は隔絶した地域であった。
あらゆる文化は、独自の進化を経て日本の特徴となっている。技文化などは海外にあまねく知られ、文化の島ガラパゴスと言える貴重な存在だ。知恵や工夫が求められ続けた歴史があるのだ。我々は素晴らしい歴史を持つ宝の国にいる。その価値や意識をもっと持ってほしいのである。従って発酵食品の文化も日本らしい独自の世界があるのだ。
 
 【菌の歴史】
 
地球が誕生したのが今から46億年前、それから10億年たって菌が誕生した。その菌から細胞が生まれ、さらに様々な生き物に進化した。人間の誕生は、46億年から数えればごく最近である。細菌誕生から現代までを一年として見ると、人間の誕生は年も押し迫った12月31日、これも終わらんとするその瞬間であると言う。
それ以前のあらかたの歴史は、常に細菌が地球の支配者であった。今も衰える事無く、新たな種を増やし人間以上に活動していると言う。人間の大祖先の貫禄である。突然変異を繰り返し選び抜かれて動物が誕生し、その中から人間の原型が作られ進化してきたのである。世界中にいろいろな人間がいるのも不思議だ。多分、同じ種であるから、分散して行った経過の環境の変化で表面的な部分が対応し、見た感じが違ってきたに違いない。 
ともかく菌は常に人間と共存してきた。当然、友好的な仲間もいるし、性格が良くない悪いやつもいる。従って、細菌同志の戦いは常に日夜行われていると言うことだ。もし、悪い菌に対抗して、人間の体が機能しなければ、無数に分裂する悪玉菌を前に、無抵抗となって免疫も作れず、そのままやられて今日まで存続できなかったはずである。免疫力も、そして胃酸も唾液の殺菌力もその為の対抗策として備わったと思う。
そこで、人間に関わらずその細胞だが、一つの小さな菌が連立して出来ているものと考えたい。細胞の一つ一つに目的があり、好みや進化の違いはあるにせよ、健康で快適な環境が必要である。細菌の時代の名残なのか、人間の体の多くは水分があり、湿度も細菌の好みに充分適合していると思う。しかも常在菌として皮膚や内臓などに付着する菌がいる。それらは善玉として日夜良い働きをしてくれている。
発酵菌も納豆やヨーグルト、そしてチーズなど、人間にとっては友好的な働きをする仲間であり、善玉だ。ともかく見えない世界ではあるが菌の力は侮れないと言うことである。へたな理屈で滅菌しても、それにすぐ対応する新しい菌が生まれる。毎年、とんでもない新型のウイルスが出てくるので分かるはずだ。
過去の話だが、隔絶した地域の部落に現代人が訪れた時である。地元の人達にとって未経験の細菌が持ち込まれ、その村が絶滅したということがあるのだ。
ともかく善玉も悪玉も、我らが祖先はタフであり、人類が滅ぶ環境にあったとしてもその環境に適合し、新たな子孫を分裂させ生きぬく力を蓄えている。余裕である。この悪い菌であるが、人間の体の中でも蔓延らないように戦いが行われている。免疫や対抗策である。例えば、初めは唾液である。次に食物の陰に隠れた悪玉が胃液の洗礼を浴びることになる。これも細胞が対抗策として働いている。運良くと言うか悪玉がこの包囲網をくぐり抜けたときであるが、腸にまで到達する。
当然、炎症を起こして食中毒などになる。あるいは、病気になったりするという仕組みだ。こんどは小腸の活動であるが、細胞が日々剥離し新たに生まれ変わるのである。従って悪玉細菌は取り付く暇がないのである。つかまった所が崩れ落ちる訳である。従って小腸のガンは聞かないのである。
そこで、病気になった場合のこの悪玉に対する積極的な戦いであるが、強い薬を使って殺すと、人間の体も細菌と同じであり負担がかかる。当然、弱ってしまうのだ。最も良い対抗策は、その悪玉にめっぽう強い善玉菌を探して戦わせることだ。彼らは目覚しい働きをするのである。昔も今も、このことは世界中の医療研究家のテーマだ。現在、地球温暖化で騒がれている二酸化炭素を排出するごみ焼却処理も、この細菌にやらせれば、地球にやさしいものに変化させ自然に戻せると言う。我々の祖先の種類はすごいのである。腐るスピードや地中に生ゴミを埋めるとすぐに土になってしまう事なども恐ろしい程の数がいるのである。彼らこそ地球防衛軍なのである。
 
 【菌の働き】
 
菌が繁殖していく際、菌の餌になるものを分解し、別なものに変化させると言う働きがある。細菌はこの造り出して分解したものは蓄えずに体外に排出するのだ。油、水素,窒素、ビタミン、酸素など、菌によってそれぞれ細菌は異なる性質を持っている。この循環こそ生物誕生の鍵でもある。可能性と神秘性を強く感じるのである。
例えば人類が滅んだとしても彼らの力と突然変異的要素から新たな生物が生まれないとも限らないのである。この分解し良いものを作る性質だけを使えば、味噌や醤油や鰹節はうまみを増すのである。そんな事から植物もその細胞単位で考えれば、酸素を排出する細菌と考えられなくもない。これも納得できるのである。問題は悪玉菌だ。毒を排出する。とんでもない猛毒を出すのがいる。病原菌もだ。毒キノコもある。数ある大腸菌の種にも良いものも悪いものもいる。
しかし悪い菌がいくら強くてもよほどのことがない限り、善玉菌や胃の中の酸、そして塩分などに、めっぽう弱い。人間の知恵であるが、魚の干物も、発酵菌と塩で腐敗菌を寄せ付けない、付いても簡単に殺してしまうのである。
 
 【現代の食文化】
 
そこで人間の健康だが、この細胞を維持していく視点から現代の食生活を考えたい。
実は“問題だらけである”と常に新聞をにぎわしている。添加物、遺伝子組替えなどの話もある。見てくれの良いものを追い求めるとそこには必ず問題が派生するようだ。製造販売側と消費者の間違った発想の先には“健康を無視する食文化”があると言うことだ。期限をつけた事で無駄に廃棄される食品は膨大な量である。これを少し伸ばすだけで犯罪となる。何となくすっきりしない。ますます迷走である。これをそろそろ卒業したい。
今の食環境の根本となる、我々の細胞の元気から捉えるべきである。仲間の善玉菌の元気なども今は実に確保しにくい環境にあるはずである。アトピーやアレルギーそして喘息など昔はあまり聞かない病であり、これも一連の迷走が要因と思う。こんなことをしていると、いつなんどき環境の変化に順応して、善玉菌が逆に悪の道に豹変しないとも限らないのである。細胞レベルで考えれば今の環境は最悪である。三十数年前の与論島だが、海岸辺にまで珊瑚が広がりネオンテトラが手ですくえた時代である。珊瑚があった小さな潮たまりに,キャップ一杯の食器用の洗剤を間違って流した時である。そこにあった珊瑚の全てが翌日死んだのである。観光ブームとなった当時の与論島で、全く同じ状況が起きたのである。
環礁の内側の珊瑚の全ては一年を待たずに全滅したのである。この事実は、考えなくても分かると思うが、恐怖を感じる現実の話だ。珊瑚も生き物であり細胞で構成されている。人間にとっても絶対に良いはずがない。
本来、出来るだけ自然に近い良い環境を作っていくという姿勢が大切であると思う。危険な食環境や不健康な事はさけることだ。今は細胞の周りが危険なのである。無理をして造った食べ物。添加物、これも天然系と化学合成系のものがある。後者の種の添加がいくら基準内でも、菌が寄り付かないのは不自然である。いつまでも腐敗しない食品などだ。
効率だけを求める不健康な野菜,遺伝子の操作。卵や生鮮品などの色も濃くしなければ売れない習慣がある。野菜、銀さけ、真鯛などにも化粧添加が行われている。
戦後からの食文化の進化は“元気を度外視する傾向”にあるようだ。問題は細胞レベルの話だ。過度の嗜好に走ることと誇りを忘れたビジネスが常に問題の要因を作っていく。添加も“基準内なら安全”とする説明がある。それでも小さな細胞単位で考えれば、珊瑚は死ぬのである。全てが消費の世界と結びつき、うそ臭い問題に繋がっていく。不健康な状態の食品より“自然が良い”と思う人も沢山いるはずである。
 
 【発酵菌と酒について】
 
日本の酒作りは縄文時代から始まったと言われている。初めの頃は穀物を噛んで吐き出し、口の中の発酵菌を使う原始的な製法。汚いと感じるが善玉菌が悪玉菌をやっつけられれば腐らずにうまく発酵して酒になる。負けたら腐るのである。そこで酒もこの細菌と人間の細胞レベルで考えたい。
この視点で捉えれば、昔と今は全く違う。昨今の嗜好品となった酒だが、菌力を必要な工程だけに働かせ、後は人工乳酸で殺菌し発酵を止め、アルコール濃度と好みの味を調整するプロセスで造っている。この嗜好に走る飲食物の調整製造が気になる。元々の酒の製法であるが、大陸から技術が入り島国の知恵が加味され、日本らしく進化してきた素晴らしいものである。大切な麹の作り方も、中国は餅にカビをつけて行う。日本は米粒の一つ一つの周りに、麹カビを繊細に咲かせている。実にデリケートな酒母を作る。
その繊細さから、菌は実に健康的でそれを生かした生_造りは、そのまま絞ると実にさっぱりとした仕上げとなり、日本らしい上品さを持つ味となる。しかも酒になっても健康である。これを昔の人達は百薬の長といった。
本来、良い酒を造るのも子供を育てるのと同じであると言う。生きているのである。そう思っている杜氏がほとんどだ。自然の中でのびのびと強い元気な菌としてうまく働いてもらう。多種いる発酵菌の微妙なバランスを利用し自然環境を作り、腐敗菌の働きなど蹴散らして、うまく発酵させるのである。昔の醸造所の樽は、酵母菌などの善玉菌が厚くびっしりと付着していたという。今のように管理した部屋ではない。しかし善玉菌が腐敗菌を寄せ付けなかった。力があったのである。近年は、それが不衛生であると言う見方をし、ことさら綺麗にして近代的と言う。これが醸造所かと思う。“改善された(?)のか”は疑問ではあるが、菌の健康面から考えればむしろマイナスかも知れない。
 
 【百薬の長・・この酒とは】
 
これは是非確認したいのである。昔の人は酒のことを何故 “百薬の長”と言ったのかである。
実は、職人名工会ではこの言葉を意識し続け、この百薬の長を造る酒蔵を探してい。
このタイプのお酒も作っていますと言うのではない。お米から作り、菌の力を一番に考え本物の“百薬の長”しか作らない酒蔵だ。ほとんどは“百薬の長”とは言えない速醸造である。その特徴的なものが品評会の賞自慢だ。言い換えれば趣向品としてのコンテスト。人工乳酸で酒母を殺してアルコールと味調整を競うのである。これでは自然力が全くない。
品評会を行うなら、生きた酒の健康“百薬の長”を審査すべきである。ともかく元気な酒を造る杜氏とその会社を見つけた。もちろんどの酒造の杜氏でも、酒造りに燃えている人であれば本物を造りたいはずである。
本物を知らせることが義務である。速醸造を飲んでのうんちくなどただの好みを語るだけの酔っぱらいにすぎないと思うのである。
 
 【酒造の姿勢】
 
 
そこで紹介したいのが良寛杜氏と寺田社長だ。良寛杜氏は昔、お坊さんであったと聞くが、誰が言うともなくこの名前が付いたのである。寺田本家も、今でこそ語れるが、過去には品評会で賞を取るという気持ちはあっだが、常に疑問があってやめたのである。過去の栄光など意味がないので封印した。
今は“百薬の長”たる元気な酒しか作らず、分かっていただける人にだけ、自信を持ってそのまま生で絞って販売する。菌力の強い元気な発酵菌と二人のリーダーのスクラム、さらに同じ意識を持つ蔵人がいて造る酒である。元気は当然だ。
百薬の長を求めるならば、趣向で捉えてはならない酒があると言うことだ。自然に造るとこうなるのであって “百薬の長”とはこれかと思う。実にさっぱりとしており、昔の日本人の食文化の伝統を感じさせる。
杜氏が言うには濃い味のものも出来ると言う。美味いにこうしたことはないのである。丁度、料理酒の話をしているところにお伺いした。酒のテスティングにも加わった。何とうまい数年たっている古酒である。酒が活きているとこれだ。実感出来て非常に大満足。色はあめ色。一般の酒で、これほど保管したら“飲めたものではない”。死んでいるのだから当然である。本物でなければ、人間の細胞は喜ばないのだ。確かに、我らが善玉の菌力が強ければ,酒も腐らずに活きている。百薬の長と言える酒は健康だ。こうでなくてはならない。実は面白い話を良寛杜氏から聞いた。
元気な発酵菌を使った江戸の酒だが、廻船で江戸に酒を運ぶ途中で船が揺れる。水の分子“クラスター”が小さくなり、当然発酵が促進する。これが“下り酒”だ。
うまい酒を語る言葉である。もちろん酒に限らず揺れての醸造物は例えば、下り醤油もある。同じ美味いと言う意味言葉だ。この揺れで酒はまろやかになる。ぐんと濃度も度数が増すのである。そこでだ。江戸の頃の居酒屋では、濃度が増したこの酒では強いし濃いしで、このままではもったいないと考え “水で薄めて売っていたと思える”との事であった。確かに落語に“水で薄める”といった話が出てくるので納得である。これは発見であった。
 
 【酒について】
 
酒造りはどの手法であっても基本は同じで発酵菌を働かせて醸造する。アルコールを単に水で薄める甲種の製法もあるがこれは本来の醸造とは異なるのでここでは外したい。昔ながらの製法となれば生_造でこれ以外はない。ここから酒造りは始まっている。
現在の酒の製法は大きくわけて二種類ある。ここでの生_造と促成で行う速醸_造である。大手の酒蔵メーカーの酒のほとんどが後者の速造りである。昔の生_造は、ゆっくり発酵させる必要があって寒仕込みを行っていた。冬に行うのは、腐敗しにくいと言うこともある。それと発酵の恐ろしいほど早さをゆっくりとさせる為だ。従って冷やしながら行うこともする。
当時の作業で、最も重要かつ重労働となるのが“山卸(やまおろし)”と言われる工程だ。麹と蒸かした米と水とを混ぜていく作業だ。発酵させる量は少しづつ行い。山卸は頃合いを見て常に行いそれを加えて行くのだ。これが厳冬の手作業である。この山卸を機械化して廃止したのが“山卸廃止_仕込み”であり、これを略して“山廃仕込み”と言う。
酒種は生_造に入る。従って機械作りをあえて明記する必要があるのかは人によって様々と思う。価値としてどういう意味があるのかも考えにくい。いずれにせよ客が生_造と理解しているならばそれはそれで良い・・。
しかし元々の山卸作業を手加減でやれば、やはり相手も生き物である。“自然のままで菌に頑張らせたい”という蔵人達の思いが菌に伝わっても不思議はない。
例えば,野菜だが、ビニールハウスや水工栽培と路地物の自然な野菜を比べれば明らかに栄養素も元気も違うはずだ。元気の違いからそうするのであれば違ってくるのは当然である。その意味でこの本来の生_造の製法も価値あることになる。
さて、もう一つの速醸造製法だが、発酵菌の働きを止める人口乳酸の添加である。雑菌繁殖を防ぐ意味もある。味や度数を一定にする為にその後の技術でどうでもなるはずだ。だから無菌であり、1年も放置しておくとまずくなる。味をつけたアルコール水の甲種に近いのである。しかし、嗜好品として考えればそれはそれであり、楽しくおいしければ良いと思う人もいる。今日も一杯と居酒屋に行ってしまう弱さもあってまあ人間である。
しかし本物の酒通を語りたいのであれば、常識的な知識として知っておく必要はある。
だが、名工会は本物生きている酒を “百薬の長”を造る職人を価値あるものと考える。
速醸造は酒の歴史、人間の歴史からしても昨日今日出来たばかりである。商売上の効率製法であり、今の食文化のひとつの類型であれば、気になるのである。
 
 【お米に付いて】
 
酒の為のお米だが,良く聞くのが山田錦や美山錦などで、流行の端麗辛口のシャキッとした味を出す最高のお米だ。しかしその土地のお米として区分すれば、東北では美山錦、西では山田錦といった具合である。日本で栽培されるお米の種類は200種、酒米に適しているのがそのうちの90種。酒蔵好適米、山田錦などをその中から厳選すれば30種となる。
とはいえ各地元の杜氏からすれば、それを使えば良いと言った簡単なものではなく、意地もあって地域の酒を意識するはずである。古代米を含め、昔からの土地の米を使うは、多くの杜氏の研究である。土地に適した酒はやはりほしいのである。ここまでの話がわかれば、飲む側の姿勢も違う、楽しみ方が違ってくるはすだ。
悠久のロマンとそれに挑戦する杜氏が造る元気な酒も一緒に楽しむ。
“今年の酒はどうだろうか”と言うのが本来の酒通の本道と思う。米の出来も違うのである。気候も違う、場所も違うのである。ブランドは調整したものでは単なる嗜好であり酒を語ってはいないのである。好きな味を語っているだけだ。造った味を良いとするならば、結局は操りがあって嘘くさい方向にいくのである。本物を作る蔵人達を前に、調整した酒を語っても意味が無い。笑止。比べても意味がないのである。本物の酒を楽しみ、美味かったら杜氏に感謝と誉め言葉を一つをかけたい。これが本物の酒好である。
こうした言葉もある。
和食の最高峰の料理人であった先代の辻留の旦那が、料理についてこう語った。『美味すぎる料理は駄目です。』と言うのである。その時は蕎麦の話であった。『美味すぎることによって蕎麦の味が消えてしまいます。従って昆布は使わず良い鰹節だけで充分。大切なのは蕎麦を楽しむことです』。と言うのである。
四季を愉しめる味覚にならなくては酒通も本物ではない。これも楽しみである。大手の銘柄の杜氏達も、本当は自分の思いで自由に酒を造りたいと考えているはずだ。当然であるが、良寛杜氏も寺田社長も毎日が楽しいはずだ。本物を作り続けている誇りが違うのである。
 


Copyright (C) 2002 WAZA All Rights Reserved.